■悲しきマスクマン
ちょうど、1週間前のことだった。
やたらと肩が凝る、いやな予感がしてきた。
実は、以前もこういうことがあったのだ。
その昔、ひどい肩こりだと思って、肩をたたいていたが、どんどんひどくなって、いろんな薬を塗ってもどうにもならない。そして歯が浮くような妙な感じがしてきた。
医者に行った。肩が余りにひどく痛むと、大昔、医者が注射してくれて、治ったことを思い出したからだ。
お医者さんが、帰りに、「橋本さん、これは歯から菌が入っているんてすよ、歯医者さんに行ってくださいね」と
数日後、歯医者に行って、治療を始めた。うそこのように肩の凝りがなくなった。そんなことがあるんだと思った。
結局、いろいろ悪いところを全部治してもらうことにしたら、1年かかってしまった。
俺は、昼間は一応ちっちゃな会社の社長さんなので、時間は自由につくれるので、朝一番に歯医者さんに行った。働き盛りの男が、朝一番から歯医者に毎週来るなんて、そうはいない。田舎ということもあるし、周りは、おばあちゃんとおじいちゃんばかり、数週間すると、おばあちゃんが話しかけてきてくれた。
「いつも会いますね」とニコニコしてくれた。
ナンパされた…と思った。俺は、生まれて初めてナンパされた…ばあちゃんに。
さて、話を現在に戻そう
しかし、1週間前は、やたらと忙しく、歯医者に通うほどの時間の余裕はなかった。
鎮痛剤でごまかしていたが、どうしても我慢できないほどの痛みが、俺を襲いだしてきた。
上あごの内側が大きく腫れ、ばい菌さん満タンみたいな感じになり、物も全くかめなくなってしまった。
ばあちゃんにナンパされた、例の歯医者に電話をかけた。
「痛いんです、すぐに行きますから、お願いします」と
そして車で3分のところにある、例の歯医者さんに飛び込んだ。
受付で「痛いんです…今、電話した橋本です」と告げ、診察カードを出した。
周りはやっぱり、じいちゃんと、ばあちゃんばっかりだった。
俺は、待合いの長椅子に座り、置いてある雑誌をペラペラめくりだしていた。だが、耐え難い痛みのために、不自然にひざが小さく震えた。
「金田さん」と、衛生士のおねえちゃんが、ばあちゃんを呼んだ。
すると
「こっちの方、痛いそうで、わたしゃ後でいいから、先にやってあげて」と、ばあちゃんが、ねえちゃん言った。。。。
衛生士のねえちゃんが、奥に引っ込んで、先生と話をしてすぐに
「じゃあ、橋本さん」と俺を呼んでくれた。
涙が出るほどうれしかった。
俺は「ありがとうございます」と、全く素直に、男の意地のかけらもなく、言葉に甘え、さっさと診察台の方に向かった。
「おはようございます」先生が位置についた。
「あ〜ここね」と、先生、ちょっと触れた
「グゥ…」という腹の底から出る声とともに、俺の体が、勝手に飛び上がってしまった。
「いいいいてぇ〜じゃねえか、このばか野郎」と、言いたかった。が、言えない、俺。
レントゲンを撮り、今度は口の中に上等なデジタル一眼レフカメラを向けて写真をいろんな方向から撮っていた。
「よぉ、ねえちゃん、そんなことより、早いとこ、この痛みを何とかしてくれよ」と言いたかったが、言えない、俺。
若い、ねえちゃんに、でっかい口を開いて、口の中ばっかり、バシャバシャ写真を撮られるのは、かなりいや〜な気分。
違う患者の治療に行っていた先生が戻ってきた。
「は〜い、倒しま〜す」と言いながら、診察台を寝かせた。
麻酔を打ち、治療にかかってくれた。だが、麻酔は痛みとは違うところに打たれた。
そうか、この歯が原因なんだ。俺は妙に納得していた。
学生時代、バイト中に前歯を2本折った。それ以来、その部分はブリッジで固定してある義歯だった。それを支えている歯に原因があるらしい。
あの、神経を逆なでするような、キィーンという音と、歯の焦げる臭いの中…できるだけ違うことを考えよう、考えようとしていた。
ブリッジが外れたのがわかった。
「あ〜あ」と思った。
合計3本の前歯が俺の口から消えた。
今日の一通りの歯の治療は、これで終わりかな、そんな雰囲気だった。
すると、突然、大先生、化膿して、ばい菌いっぱいのような大きな腫れに、親指を当てた。
えっ?
次の瞬間、俺は、俺の頭が、グッと沈むぐらいの渾身の力で、痛みの根元をつぶしにかかったのだ。
「ウギャ〜グググ…」俺の口から音が出た。
これでもか、よ〜し、これならどうだといわんばかりに、大先生の親指が震えるほど力が加わってきた。
俺の閉じた両目から、体が何かに助けを求めるように、慈悲を求めるがごとく…大量の涙が流れ出た。
結局、膿は一滴も出なかった。
「はい、今日はこれでおわりで〜す、おだいじに」とねえちゃんが言った。
車に乗り、来たときよりも、ずっと痛くなって、俺はコンビニへ飛び込んだ。
そこに売っていた、大きなマスクをいっぱい買った。
前歯3本ないと、塾の授業なんかまともにしゃべれない。
「いんしゅうふんかいは、ここがホイントやで〜」何を言っているのか、自分でも聞き取れない。
当然だが、物もまともに食えない。ラーメンなんか、そのまま箸に戻ってくる。
悲しい
今日こそ、歯がはいるかな?
そう思い続けて通う、例の歯医者
だが、俺の前歯の人質のごとく、なかなか返してもらえない。
その日以来、俺はずっと、悲しきマスクマンなのだ。
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